※以下に始まるSS「I wanna be your DARKSIDE」は、
’97.10.26、リーフファン1において
発行されたコピー誌「君の影になりたい」よりの
転載です。

「I wanna be your DARKSIDE」

平日の正午。オフィス街の谷間にある小さな喫茶店にサイレンの音が響く。日 当たりの良い窓際の席で俺は、箱の中にあった最後の一本の煙草に火をつけた。 肺に大きく煙を吸い込み、そして吐き出す。空気中に漂う煙は手元のブレンドの 湯気と絡まり合い、宙に拡散していった。

−今日、五年ぶりに昔の彼女、智子と待ち合わせをしていた。
仕事が忙しいから、昼休みに抜け出してくる時間しか会えないけど…。
昨日、夜中にようやくつかまえた彼女は憂鬱そうにそう言った。
俺は腕時計をちらり、と見て溜息をついた。
立ち上がり、店の入口にある自動販売機へ向かう。煙草を買うべく、ポケット から財布を取り出した時、半透明のドア越しにいかにもばりばりのキャリアウー マンでござい、といった出で立ちの女性が見えた。

あぁ、智子は昔と、少しも変わらない。

俺は彼女を迎えるべくドアの方へ足を向けかけたが、思い直して背を向け、 席に戻った。
カランカラン…
「いらっしゃいませ」
「…よぉ、久しぶり。」
俺が手をあげると智子は、恥ずかしそうに曖昧な笑みを浮かべ、こちらのテー ブルへ向かってきた。
「久しぶりやね。突然呼び出すからびっくりしたわ。」
「悪ぃな。…仕事、忙しいのか?」
俺は昨日電話で聞いた事をもう一度尋ねた。と、いうより、もうお互いどうい う生活をしてどういう趣味を持っているかなんてわからなくなっているからとり あえず、と出した話題だ。
「んー、今の時期は特別やな。転勤やら入学やらで新しい人が入ってくるから 。」
「そうなのか。こっちは景気悪いぜぇ。」
「浩之、建築やったっけ?そんならやっぱり今の時期が大変ちゃうの?」
「駄目駄目。もう大阪に家建てようなんて成金、そうそういないよ。」
「暇なん?今日、会社は?」
「…それなんだけどさ。本社に転勤になって。」
「…本社って、東京?」
「うん。で、今週は引っ越しで、休みもらった。」
「…そう」
智子が何かを言おうとして止めたのを感じた。その言葉は、きっと、「寂しく なるね」…だろう。
「多分、ずっとそこで働く事になると思う。」
「なんや…せっかく浩之も関西弁入ってきたのに。」
「ははは…そうかなぁ?」
「そうや。立派な関西人やで、七年も住んどったらな。」
「大学の友達もみんなこっちの人間だったしなぁ。」
「…あのな…?」「ん?」「…やっぱり…浩之、神岸さんとかと一緒の大学行 ったほうが良かったんちゃう…?」
「なんだよ、今さら…」
「だって…」
「…」
「二人で大阪来てから、浩之、随分変わったし…」
「…」
「あ、…ごめんな、こんな話、しに来たとちゃうやろ?なんか用事あったんや ないの?」
「ん…、まぁ、たいしたことじゃないんだけどさ…」
俺は懐から封筒を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
「一緒に暮らしてた頃…金、借りたまんまだったろ、ごめん。」
「なんや、そんな昔の事…忘れとったわ。浩之も引越しでお金いるやろ?そん なん、しまい。」
「…頼む、受け取って欲しいんだ。」
智子は俺の言葉に少し目をぱちくりさせ、そして優しく微笑んだ。
…この微笑みだ。これのために、俺は生まれた町を遠く離れたここまでやって きて、仲間達を捨て、生きてきたんだ。だが、大阪の大学に入学して、俺と一緒 に暮らすようになってからこの微笑みが曇りだしたんだ。今なら、それがわかる 。あのときの智子の笑顔がただ大切なものを失いたくないためだけに表れたもの だということが。皮肉だが、たった今までわからなかった。智子は変わってない のでなく、元の笑顔を取り戻しただけだということが。
「変なところで強引なところは変わっとらんなぁ。わかった。じゃ、貰ってお くわ。」
そう言って、智子はふと気付いたようにウェイターのほうへ振り返り、ブルー マウンテンとナポリタンを注文した。俺も、底に残った少しばかりのブレンドを 飲み干し、もう一杯頼んだ。
「まぁ、そういうわけでしばらく会えないし、けじめはつけとこうかと思って さ。」
「しばらく会えないって、二人して大阪に住んどるのにしばらく会ってなかっ たやん。」
「それもそうか。」
智子がくす、と笑う。…こうして二人で喫茶店に笑っているなど数年前は思い もよらなかった。お互いがお互いを憎んでいると思って過ごした日々。時間がな にもかも解決してくれ、暖かな春の日差しの中、二人は昔を想い、照れながら見 つめ合っていた。
…あの日が戻ってきたようだ。
ウェイターがコーヒーを運んで、俺達の前にかちゃり、と置いた。
俺は煙草を開け、一本取り出し、火をつけた。
…あの日が二度と戻らない事はわかっていた。
この店に彼女が入って来た時。見た事のないスーツ、短くしてしまった髪型、 レンズの小さな眼鏡、…左手の中指。
智子は、少しのミルクと少しの砂糖を自分のカップに投入し、そっと指輪の輝 く左手を添えてブルマンに唇を寄せた。
俺は智子の手元にあったミルクの瓶に手を伸ばし、自分の方へ引き寄せた。
はた、と智子の手が止まる。
俺はかまわずそれを自分のブレンドに注ぎ、智子が目を丸くしているのにも気 付かぬふりをして、砂糖の瓶も手にした。スプーンに載った白い粉を一瞬眺め、 カップに一杯…二杯、三杯入れた。スプーンで軽くかき混ぜ、くいっと二口三口 、口に含んだ。
智子が寂しそうな顔で微笑み、言った。
「…ホント、浩之、変わったわ。」

−あの高校生活から十年が過ぎた。俺は数ある可能性の中から智子を選んだの だ。その事に悔いはない。だが、今、あの時、別の可能性を選んでいたらどうな ったんだろうと考えてみたりもするのだ。
あかりは、大学卒業後すぐ、結婚したらしい。志保は外国に行ったという話を 聞いて、それっきりだ。来栖川先輩はいいトコの坊ちゃんと政略結婚を余儀なく されて、レミィにいたってはアメリカ帰国後手紙すら出していない。
あれから十年が経ち、俺は再び桜の舞う季節、この町に帰ってきた。
そして−
この春、俺はいったい、どんな出会いをするのだろう?





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