※以下に始まるSS「To Winter Heart」は、
’98年冬コミにて発行されたコピー誌「冬の心に」よりの
転載です。

To Winter Heart

河合開


 
「だって…浩之ちゃんも…気付いてくれてるって…信じてたのに…」
まただ。矢島はこれ見よがしの大きな溜め息を吐いた。冬の冷たい空気に息が 真っ白になる。隣に座るあかりを見ると、髪の分け目まで真っ赤になった頭から かすかに湯気が立ち上っている。その姿が滑稽に思えたがとても笑える雰囲気で はない。
矢島が神岸あかりと付き合い出して3ヶ月が過ぎた。付き合い出して3ヶ月。一般的な高校生のカップルならもう行く所まで行っていてもおかしくな い期間、矢島はあかりにキスすら許されずにいた。手くらいは握った事がある。 それも、あまりにあかりが緊張し肩を強ばらせるので矢島の方から早々にほどい てしまった。
3ヶ月前。矢島はあかりが好きだった。あかりは藤田浩之が好きだった。藤田浩 之は来栖川芹香が好きだった。そして、来栖川芹香は藤田浩之の気持ちを受け止 めた。あかりは浩之を忘れようと矢島の告白に応じた。良くある話だ。しかし、3ヶ月。この間あかりは浩之が忘れられず、矢島も時が過ぎるのをただひたすら 待っていた。一度、浩之の話ばかりするあかりを矢島は叱責した事がある。それ から、あかりは浩之に関して「友達がね」とか「例えばA君とBさんがいたとして」などと話すようになった。だが、結局感極まるといつも浩 之の名を呼び、泣き出してしまうのだ。
こんな時こそ彼女を支えてあげなければ、と思い、そっと肩を抱こうとした事 もある。しかし、次の瞬間矢島の頬に鋭い痛みと、ぱし、という辺りに響き渡る 音を残してあかりは走り去った。それから矢島はいつもこんな時、惨めな無力感 にさいなまされながら、ただ時が過ぎるのを待つのだった。
矢島と浩之は学校では一切口を聞かなくなっていた。ただ、間に挟まれた雅史 がいつも申し訳なさそうにお互いの情報を伝えていた。あかりはあかりで、何故 かいつのまにか来栖川先輩と仲良くなっていた。浩之、あかり、来栖川先輩。3人で楽しげにしているところを何度となく目撃した矢島はその度に壁を蹴飛ば し、畜生、と呟いていた。
矢島は未だにあかりの事を神岸さん、と呼ぶ。話す時はいつも気を使い、彼女 を傷つけないようにする。あかりに対し不遜な態度をとる浩之へのあてつけのつ もりだが、端から見ると、浩之の方が恋人であるようにしか思えない。
誰も悪くないが、矢島は浩之が憎い。浩之を避けるのは浩之を傷つけるとあか りが悲しむ事を知っているからだ。とはいえ、浩之と来栖川先輩の仲を裂き、あ かりと浩之の橋渡しをしようと割りきれるほど善人にはなれない。
「う…ひく、ごめんね…」
「…いいよ。落ち着いた?」
「うん…」
「…帰ろうか」
「…」
「ん?」
「あのね…私も…わかってるの。矢島くんの事好きだし…浩之ちゃんは来栖川 先輩を選んだんだって…」
「…」
「矢島くん、優しいから…つい、甘えちゃって…そんなの、みんなが傷つくだ けなのに…」
「…いいよ。仕方ないじゃないか」
「ううん、もう、それじゃ駄目。だから…だから」
「だから…?」
「…忘れさせて」
ごく、と矢島が喉を鳴らせると同時に、あかりは目を合わせずに矢島の手を引 き、歩き出した。ふたりが話をしていた公園のすぐ裏手に、ホテル街があった。
混乱した矢島は、それでもあかりの横に並び、握られた手をほどいて肩に手を 回した。心臓の音が相手に伝わりそうなほど耳の内側を叩く。何か言葉を出そう とするが乾いた無声音で「あ…」という意味の無い音が出てくる。
一番手前に見えたホテルの方へ足を向けかけた矢島をあかりが制する。
「あっち…」
そう言ってあかりは少し先にある同じようなホテルを指差した。
「あ、ああ…」
矢島は少しよろめきつつ、進路を修正した。肩を抱いたまま歩く事の窮屈さを 初めて知り、手が震えるのを抑えられなかった。
そのホテルの門前に立った時、あかりは泣いていた。突然あかりが立ち止まっ たため、矢島はまたもバランスを崩し、抱いていた腕がほどけた。
あかりは両手で顔を隠し、声にならない鳴咽を噛み締めていた。
気を取り直した矢島が再び肩に手を回そうとした時、鳴咽から、ひとつの意味 あるセンテンスがあふれ出た。
「…ひろゆきちゃん…ここ…くるすがわせんぱいと…ひろゆきちゃん…」
 
それから何があったか矢島は良く思い出せない。ホテルの前で何か怒鳴った気 がする。彼女を平手打ちした気がする。壁を蹴って畜生と叫んだ気がする。気が つくと自分の部屋で棚という棚すべてをひっくり返し、ラジカセを床に叩き付け た後だった。
それから矢島は泣いた。
ただ、それでも彼女を姦すことをしていないのはわかった。
あの調子では早晩誰かがそうするだろう。
もう、関係ない。それは自分ではないのだから。
一途に、貞淑に、ただ主人の帰りを待つ小犬のように彼女は待ち続けるだろう 。
 
渋谷の駅前に神岸あかりの像が建てられるという馬鹿な空想にふけりつつ、矢 島は眠りに落ちた。
 
 
終 

 

 
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